


INTRODUCTION

物語は全六章から構成されており、シリアルキラーによる事件の恐怖が各地で広がる中、とある男女が出会い、モーテルで一夜を過ごすことをきっかけに展開していく。作品が高く評価されている最大の魅力は“非線形によって生み出された巧みなストーリーテリング”にある。時系列を操作することで、観客の興味を引き、予測できない展開へと連れていく!!
全六章に仕掛けられたワナが惑わす、
新感覚のチャプター•ツイスト•
スリラーが誕生した。
STORY
中には、今夜出会ったばかりの男女の姿が。
「あなたは、シリアルキラーなの?」「まさか」
一夜の過ちが、予測できない凶悪な連続殺人へのスパイラルとなっていく。
CHAPTER



COMMENT
6つのピースが嵌まって事態の全容が見えたら、怖さの質が変わってさらに恐ろしい。
予想外の幕切れは、悪夢の花が開くかのよう。
それが時折起こり、とんでもないツイストをかましてくる...!!
この巧みな構成が秀逸であり恐ろしい...
正直、見事すぎて唸った。観てる側と見せてる側で初めてこの映画は完成する。

逃げる女と追う男の真相。
その全貌が明らかになるにつれ、
浮かび上がる己の偏見に狼狽し、思わず恐怖。
狂気を増長する鮮やかな色彩が、今も目に焼き付いて離れない。
なのにどうしてだろう、その真実にどこか胸のすくような思いがした。
『ストレンジ・ダーリン』は、その思い込みを次々と容赦なく暴き出す新体験スリラー。観終えた時、あなたの目に映る世界はもう元には戻らないだろう。
このパズルを解こうとして観客の頭はフル回転する。でも『ストレンジ・ダーリン』は観客の予想を全部裏切っていく。ほとんど1分おきに!
美しくも哀れなエンディングには不思議な達成感すらある。さすがスティーヴン・キングも認めた傑作!


PRODUCTION NOTE
「この映画は、脚本を書き始める前から 6 つの章で構想していた。最初に思いついたのは真ん中の章。次に思い浮かんだのは冒頭部分。そして数週間後エンディング。この映画は初めから直線的な物語ではなく、後から時系列をいじったわけでもない。章が順番通りに再生されないことは必然的に決まっていて、私のひらめいた通りの順序で再生しなければ、物語が成り立たないことも分かっていた」。“レディ”のイメージが彼の頭の中に明確にあったことで、脚本の執筆は一気に進んだ。「どのように幕を開け、物語がどこへ向かっていくのかはわかっていた。今までにないほどの早さで書き終えた」いつもの脚本執筆では、彼の初稿はたいてい 150 ページ以上に及ぶ。
しかし、彼はこの映画はこれまでとは違うものになると確信していた。彼はこの映画をミニマリズムの実践にしたかった。シーンが息づくように、ストーリーにパンチとインパクトをつけ、90 ページ以内に収めることを目指した。彼はお気に入りのロックバンドのひとつであるピクシーズの音楽を参考に、大きな音の節と静かなメロディアスな節を交互に繰り返すという彼らの哲学を活用している。『ストレンジ・ダーリン』では、恐ろしくぞっとするような、残忍な、そして非常に強烈な瞬間が、甘さ、優しい親密さ、おとぎ話のような美しさと絡み合っている。この “ラウド・クワイエット・ラウド”なアプローチの基礎は脚本にあったが、それを実現するためには長年の信頼できる協力者である編集者のクリストファー・ベルが不可欠だった。J.T.は、クリストファーが撮影前に脚本を読むことができるようにし、事前に編集マップやメモを作成できるようにした。J.T.はショービジネスにコネクションがあった叔母が J.T.の創作の導火線に火をつけたと言う。叔母と幼い頃の J.T.はあらゆる種類の映画への愛を分かち合っていた。彼が中学生になる頃には、ロマン・ポランスキー、セルゲイ・パラジャーノフ、フェデリコ・フェリーニ、イングマール・ベルイマンの映画も必ず観るようにしていた。「私はすでに映画が好きでしたが、これらの映画はすべてを開放し、芸術としての映画の無限の可能性を初めて私に感じさせてくれました。映画製作者として、私たちが扱うことのできる題材のなんと幅広いことでしょう」と語る。
J.T.は、熱心なホラーファン(彼が子供の頃、父親とその兄弟が幽霊屋敷イベントであるフリークリング・ブラザーズ・ホラー・ショーを設立し、現在も運営中)とアート系映画ファンの両方の視点で、この白紙のキャンバスにアプローチした。さらに、道徳的な曖昧さを探究し、典型的な考え方を覆したいという彼の願望が加わった。また、J.T.が小さい頃、週末になると母親がレンタルビデオ屋に連れて行ってくれた。彼の母親は、R 指定の映画を借りることを許さず、もっとポジティブな内容の映画を見せようとした。彼は「『ヤング・フランケンシュタ4イン』、『E.T.』、『オズの魔法使い』、『ハノーバー・ストリート 哀愁の街かど』といった映画を一緒に観たことを覚えている。どの作品も大好きだったけど、幼い頃は大人向けの R 指定の映画が観られないのが不満だった。今では、幅広い映画に触れることができたことに価値があると感じている。母は魔法と楽観主義をもたらし、叔母は前衛的なものに触れさせてくれた。両方の視点を持つことは、私の映画作家としての成長にとってかけがえのないものだった。私の人生に影響を与えた女性たちのおかげで、私はよく女性の視点で物事を考えるようになった」と語る。J.T.は映画の創作過程を通して、このプロジェクトの主役である“女性”に意識が集中していることに気づく。
J.T.は『ストレンジ・ダーリン』を構想していたとき、ヒロインに魅了されていた。『ハロウィン』のジェイミー・リー・カーティスのような、追い詰められて苦しんでいる女性だ。しかし、本作ではその定型表現をさらに掘り下げて、異なる種類のストーリーを作ろうとした。本作は多くの映画ではクライマックスとなるような、女性が森の中を夢中で走るところから始まる。彼女の恐怖と悲しみと複雑さの美しい瞬間を捉えている。観客は、彼女が誰なのか、なぜ走っているのか、彼女の痛みと悲しみにつて詮索しなければならない。他の映画で殺人鬼に追われる女性たちと何が違うのだろうか?彼女は彼が最初に思い描いたキャラクターであり、すべては彼女のために行わなければならなかった。 “レディ”と呼ばれる彼女は名もなき一人の“女性”だが、この映画は典型や期待、アイデンティティについての映画であり、J.T.は、登場人物たちにその典型を象徴する名前を与えた。それはまた、このおとぎ話的で超現実的な物語にも適しており、常に現実から一歩だけ離れた、少し夢のような感覚を保っている。脚本が完成すると、J.T.はいつものプロセスに従って妻と両親の反応をみた後、次に脚本を見せたのが俳優のジョヴァンニ・リビシだった。彼は撮影監督兼プロデューサーとしてこの作品に参加することになる。ふたりは何年も前からの知り合いで、フィルム撮影への愛を通じて親交を深めた。J.T.とジョヴァンニは製作会社が決まる前から、1 年をかけてブライアン・デ・パルマやデヴィッド・リンチ、デヴィッド・クローネンバーグの映画における広角レンズや特定の色について研究を重ねた。J.T.は「私たちは、この映画の見た目を、独特な雰囲気にしたかった。視覚的な要素を調整することがとても重要だった。結局のところ、映画は視覚的なメディア。私にとってはそこから始まり、そこから構築していく必要があった」と語る。