監督・脚本・編集:二宮監 × 原作: 乙女対談

自分が一人きりだと思い込んでいる人、
4月にまだ人生を諦められてない人に観て欲しい

原作はどう生まれたのか-

原作「真夜中乙女戦争」はどのように生まれたのでしょうか?

「恋愛小説を書いて欲しい」と編集者から新宿の喫茶店で言われました。どんなのが良いのですかと訊ねると、スッと渡された本が『君の膵臓をたべたい』でした。怖いなと思ったので、家に走って帰ろうかなと思いました。
「テロリストが出てきちゃだめですか」と訊ねると「だめですね」と言われました。「東京タワー燃やしちゃだめですか」にも「燃えないものは燃えないと思います」という答えで。気づいたら『真夜中乙女戦争』が出来上がっていました。

原作の“私”は、Fさんの実体験?

黒服と出会うまでは95パーセント本当に起きた出来事と言っても差し支えございません。小説なんて絵空事だと思ってみんな読む。だからこそ本当のことを、現実に起きたことを書いてみたかった。
原作のあのような大学生は、誰がどう言おうが、いまもどこかで一人でいると思うんです。自分だけが一人だと思っている。アスファルトを舐めるように夜を生きている。そんな人に手紙が書きたかったんです。「あなたは、ここにいるよ」と。だからといってあなたは一人じゃないなんて言うつもりは全くない。「まず、あなたはこの物語と戦え」と言いたくて書きました。

“私”のように、世の中に対する鬱屈とした気持ちを持っていたのでしょうか?

煙草と小銭とそれ以外、なにも持ち合わせていませんでした。でもそれを恥ずかしいこととは、当時も今も感じていません。
10代、20代から、行き場のない憂鬱や怒りや自己嫌悪を、あるいは言葉にならないなにかを取ったら、何が残るのかと思います。「若くして幸せだったらなんの意味もないでしょ」みたいなこと、たぶん死ぬまで言ってるんだと思います。

映画が完成して-

完成した作品をご覧になっていかがでしたか?

映画が映画を超える瞬間が幾つもある映画。尋常ではない邦画。口の中にダイヤモンドを詰め込まれてぶん殴られるような映画。だなんて表現が浮かびます。つまりは、贅沢至極。
そのダイヤモンドのひとつが、まぎれもなく監督が作ったオリジナルのシーン、オリジナルの台詞だと思う。たとえば、「生きることに意味なんて感じてない」だなんて台詞を、永瀬さんが両目一杯潤ませて黒服に溢す素晴らしい瞬間もそう。他の台詞もそう。
精確に古傷を刺してくる。古傷だったのに、生傷が出来上がる。苦しい。痛い。なのに幸せで。上映終了後は暫く席から立てなくなりました。
二宮監督
ありがたいですね。嬉しいです本当に。Fさんがおっしゃった“私”のセリフは僕が大学時代に自分で言ったセリフなんです。僕にとっての“黒服”のような存在がいて、なぜそんな人が自分を気に入ってくれたのかを考えたとき、こういう部分を面白がってくれたのかもと思えた言葉を台詞にしたんです。Fさんはこの「真夜中乙女戦争」に自分の10代最後の人生を詰め込んだと思うんですけど、僕も自分にとってスペシャルだった瞬間をこの映画にたくさん詰め込んだんだと思います。ある意味、Fさんの思い出と僕の思い出が邂逅したのかなと。
監督はこういう時、こんなストロベリートークしかしないのに、映画の場になれば言葉を弾丸にし、着弾させた時にはその弾丸を宝石にする天才。
でもどんな人の内面にも、誰かから受け取った宝石と、誰かに発射することになる弾丸があるのかもしれません。この映画は、キャストの見事な演技と相まって感情の弾丸がスクリーンから雨あられと降ってくる。30代にもなった私でさえその弾丸を避けられない。現役で「生きることに意味なんて感じてない」世代はどうぞポップコーン片手に、蜂の巣になって頂きたいと思います。

“私”を演じた永瀬 廉さんはいかがでしたか?

永瀬さんの劇中での感情は、誰もが分かりやすいようには表現されていません。言い方を変えれば、巧みに抑制されているとも言えます。
たとえば、本当なら怒ってもいい時、怒らない。泣いていい筈の時に笑っている。凄惨なものを見ても表情を変えない。そんな瞬間がある。「彼は何を考えているのだろう」という瞬間が無数にある。
いずれも彼が計算して生み出した余白です。問題提起でもある。この要素こそが彼の過去の出演作にはなかった全く新しい要素。「これまでずっと見せたことのない顔を全部見せられると思う」という永瀬さんのお言葉は、その通りだと思う。
だからこそこの映画は賞味期限が切れない。映画を見た後も、彼の生み出した余白につい自分の過去を重ねて考えてしまう。問題提起に答えたくなる。「あの時、彼は本当は何を思っていたのか」「もしその通りだったとしたら、どれだけ悲しかったのか」そんな追体験をしてしまうことになるのです。
“先輩”も“黒服”もそうです。「もしかしたら、この映画の人格が、彼らの本当の姿なのではないか」と思ってしまいそうになる瞬間がある。それがこの映画の危うさを倍加させています。現実と架空の境界が分からなくなる。だからこそ、映画の中の映画にして、だからこそ映画表現の領域を超えているんだと思う。

“黒服”とは何なのか-

“黒服”は、どういった背景から生まれたキャラクターなのでしょうか?

現代を生きる上で必要な能力をすべて兼ね揃えてしまった天才、というのを仮定しました。主人公の"私"とは真逆です。なれるものならなってみたいが、絶対になれない存在。なってしまったが最後、時代の寵児になるか、犯罪者になるかしかない。そして人格的なバランスは欠落しているのが"黒服"です。
能動的だがニヒル。他人のためなら私財をなげうってでも助ける天使でもあれば、目的を定めたら手段を択ばない悪魔でもある。矛盾しながら両極の爆弾を同時に抱えている。でもこれは本当は誰だってそうなんじゃないかと思う。そして"私"も大抵の人も、真ん中しか取れないものです。
"黒服"みたいな人と友達になってみたいけど、"黒服"はたぶん友達を必要としていないんですよね。だからこそ架空の世界で成立させてみたいと思いました。
二宮監督
実は僕はFさんと逆でして、Fさんにとって“先輩”はいるけど“黒服”はファンタジー。でも僕は「“黒服”みたいな人はいるけど、“先輩”みたいな人っていないよね」だったんです。それは東京と大阪の違いかもしれないですけど(笑)。ただ僕も“黒服”を考えている時に、「矛盾」とか「両義的/アンビバレント」というキーワードには辿り着いたんです。でもそれって自分の中にもあるんですよね、泣かせたいけど笑わせたいとか。
きっと“黒服”は、誰の心の中にもいるのかもしれない。「“黒服”とは?」という問いに誰も答えられないことにロマンを見ますよね。

「真夜中乙女戦争」に込めた想い-

永遠に青くあれ、です。痛々しくあれ、傷を傷のまま抱えていけ、なんて言葉も浮かぶ。私たちの内面には、否定しきれない青がずっとこびりついている。だからこそ大人たちがこのような映画を頑張って作ったんでしょう。
同じことを思っている人間は、同じ夜、同じ町の必ずどこかにいる、なんてことも言いたかった。早くそのふたりが出会えばいい、という願いもある。そしてそのふたりがいつか別れる時、そこに強い光があればいい、という祈りもある。その光さえあれば、私たちは生きていけると思うので。
二宮監督
10代の痛さを閉じ込めただけの映画にはしたくなくて。観た人には、自分の中で決めつけている世界の範囲を広げて欲しい。自分の世界の範囲で苦しんでいる人に対してのエールという面はあると思います。やっぱり世界って摩訶不思議だし奇想天外だし、なんだって起こり得るはずなので。

最後に『真夜中乙女戦争』をどんな方に観ていただきたいですか?

二宮監督
劇中の言葉を引用するなら、「4月にまだ人生を諦められていない人」に観て欲しいですね。
自分が一人きりだと思い込んでいる人にこそ、観て欲しい。おそらく私たちが何を言ったって彼らには届かないかもしれない。でも、観て欲しいんですよ。ついでに一緒にアイスとか食べたいんですよ。
二宮監督
そういう子の友達に、この映画は絶対になれるはずですから!